保管期限のご案内
書留が届いたのは、特に何もない木曜日だった。
サインを求められた。玄関先で受け取り、名前を書き、配達員が去るのを見届けてから封を開けた。配達員は角を曲がったところで消えた。角を曲がれば消えるのは当然だが、なぜか今日に限って、そのことが気になった。
差出人の欄には「情景管理センター」とあった。センター、という語の持つ、あの乾いた信頼感があった。病院でも役所でもないが、どちらかに近いもの。そういう印象だった。
中身は、A4の用紙が三枚だった。
一枚目は通知書だった。
拝啓、時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
このたびは弊センターよりご連絡差し上げますのは、お客様が現在お手元に保管されている「情景」の一部につきまして、保管期限が近づいているためでございます。
つきましては、下記の情景リストをご確認いただき、各情景について「継続保管」「返却」「廃棄」のいずれかをご選択ください。なお、期限までにご回答がない場合、弊センターの判断にて処理させていただきます。
ご不便をおかけしますが、何卒ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
敬具
情景、という言葉を、わたしはしばらく眺めた。
情景というものが、貸し出されたり返却されたりするものだとは知らなかった。しかし考えてみれば、記憶というのはいつまでも完全な状態で手元にあるわけではない。薄れるものもあれば、変形するものもある。どこかで誰かが管理しているのだとすれば、辻褄は合う気がした。
二枚目が、情景リストだった。
情景リスト(お客様番号:非公開)
No.1 登録名:「夏の終わりの、川べりの匂い」 登録日:お客様が七歳のとき 状態:良好 備考:特になし
七歳の夏を、わたしはあまり覚えていない。ただ、川のそばで過ごしたことはあった。夕方になると草と泥と水が混ざったような匂いがして、それが夏の終わりだということを、理屈ではなく皮膚で知っていた。今でもその匂いをどこかで嗅ぐと、何かを思い出しそうになる。何を思い出そうとしているのか、最後まで届かない。
「継続保管」に丸をつけた。
No.2 登録名:「修学旅行の夜、誰かが泣いていた声」 登録日:お客様が十二歳のとき 状態:劣化あり(音質の欠損が見られます) 備考:声の主は特定されておりません
あった。暗い部屋の中で、布団を頭からかぶっても聞こえてくる、小さな声。誰が泣いているのかわからないまま、わたしも眠れなかった。聞こえないふりをした。正しかったのかどうか、今もわからない。劣化している、という記述は正しかった。声はもうほとんど思い出せない。泣いていた、という事実だけが残っている。
「継続保管」にした。劣化していても、手放す気になれなかった。
No.3 登録名:「はじめて一人暮らしをした部屋の、初日の夜の天井」 登録日:お客様が二十歳のとき 状態:良好 備考:この情景には感情ラベルが付与されていません
感情ラベルがない、というのが少し引っかかった。あの夜は確かに何か感じたはずだった。しかし備考が正しいかもしれなかった。あの天井を眺めながら何を考えていたか、思い返してみると、何も考えていなかった気がする。ただ天井があった。白くて、染みが一つあって、電球が一つあった。感情というより、状態だった。
「継続保管」にした。
No.4 登録名:「道を尋ねてきた老人を、正しい方向に案内できた瞬間」 登録日:お客様が二十六歳のとき 状態:良好 備考:当該の老人はその後、弊センターに感謝の意を登録しております
弊センターに感謝の意を登録している、という記述で、わたしはしばらく動けなかった。あの老人が今もどこかにいて、あの瞬間のことを覚えていて、しかもそれが管理されているということに、うまく言葉にできない感覚があった。嬉しい、とは少し違った。嬉しいよりも、静かな感じだった。
「継続保管」にした。
No.5 登録名:「書こうとして書かなかった手紙の、書き出しの一文」 登録日:お客様が二十八歳のとき 状態:良好 備考:手紙の続きは登録されておりません
書こうとした手紙があった。誰に宛てたものかは書かない。書き出しだけ書いて、やめた。書き出しが良すぎたのかもしれないし、良すぎるということはなかったのかもしれない。ただ、書き出しの一文を書いた瞬間の、あの感覚だけは覚えている。続きを書いたら、その感覚が壊れる気がした。
「廃棄」にしようとして、やめた。「継続保管」にした。
No.6 登録名:「深夜のコンビニで、他の客が一人もいなかった瞬間」 登録日:登録日不明 状態:良好 備考:同様の情景が複数回登録されていますが、代表として一件のみ掲載しております
これは確かに何度もあった。深夜の、誰もいないコンビニ。蛍光灯の光が妙に白くて、商品が整然と並んでいて、店員がバックヤードにいて、自分だけが売り場にいる。あの孤独は、普通の孤独とは少し違う種類のものだ、とずっと思っていた。悪くない孤独だった。
「継続保管」。
No.7 登録名:「好きだった人の名前を、もう声に出さなくなったと気づいた瞬間」 登録日:お客様が三十一歳のとき 状態:良好 備考:この情景は他の情景と複合的に関連しているため、単独での返却・廃棄はできません
単独での廃棄はできない、とのことだった。どの情景と複合しているのか、記載はなかった。聞きたかったが、問い合わせ先はなかった。
「継続保管」にした。もともとそうするつもりだったが、できないと言われると余計にそう思った。
No.8 登録名:「電車の窓から見えた、知らない家の灯りが、通過するにつれて消えた瞬間」 登録日:不特定多数 状態:複数件が統合されています 備考:これらの情景は特に意味を持たないものとして登録されていますが、お客様が繰り返し想起されているため保管期限の延長を行っておりました。このたびの通知は、延長の限界に達したためです。
意味を持たないものとして登録されている、という記述に、少し傷ついた。傷ついた、というのは正確ではないかもしれない。ただ、誰かに「それは特に意味がありません」と言われたような気分だった。しかしわたしは何度もあの情景を思い出していた。意味がないのに思い出すということが、意味なのかもしれなかった。あるいは、意味のないものを意味があると思い込むのが、人間というものなのかもしれなかった。
それでも「継続保管」にした。延長の限界に達しているとのことだったが、延長できないと書いてはいなかった。
三枚目は、返送用の封筒だった。切手を貼る欄があったが、「切手不要」と印刷されていた。
全項目を記入して、封筒に入れた。廃棄にした項目は、一件もなかった。返却にした項目も、一件もなかった。全部、継続保管だった。
翌朝、ポストに入れた。
昼過ぎに、センターから確認のメールが届いた。メールアドレスは登録した覚えがなかったが、届いた。
お手続きありがとうございました。継続保管のお申し込みを承りました。次回の保管期限通知は、お客様のご状況に応じてお送りします。なお、今回ご確認いただいた情景は、引き続きお客様の内側に保管されます。保管場所については、弊センターからご指定することができません。お客様ご自身のご判断にお任せすることになります。
今後ともよろしくお願いいたします。
保管場所はわからない、ということだった。
そうだろうと思った。わかっていたら、苦労しない。七歳の夏の匂いがどこにあるのか、修学旅行の夜の声がどこにあるのか、書かなかった手紙の書き出しがどこにあるのか、ずっとわからないまま生きてきた。どこかにあるらしいということだけは、こうして通知が届くのでわかった。
それだけでも、悪くなかった。
窓の外で、夕方が始まっていた。
電車の窓から見えた、知らない家の灯りのことを考えた。意味がないと言われたあの情景のことを。乗り過ごした駅の向こうで、灯りはまだついているのだろうか。誰かが夕食を食べて、誰かが風呂に入って、誰かが眠るのだろうか。
考えて、わからなくて、それでよかった。
明日もどこかで、知らない家の灯りが通過していくだろう。
わたしはまた、それを見るだろう。