優良顧客
一
スコアが下がったのに気づいたのは、朝のコーヒーを買うときだった。
いつものように端末をかざすと、レジの小さな画面に見慣れない表示が出た。「ライフスタイルスコア:B+」。先週まではAだった。田村は一瞬止まったが、後ろに列ができていたので、そのまま受け取って店を出た。コーヒーの温度は、いつもと同じだった。
ライフスタイルスコアというものが導入されたのは、三年前だった。「より豊かな消費体験のために」という説明だった。スコアが高いと、様々なサービスが優遇された。レストランの待ち時間が短くなった。タクシーの配車が早くなった。住宅ローンの金利が下がった。スコアが低いと、その逆になった。強制されたことは、一度もなかった。選択の自由は、常に保障されていた。
ただ、選択肢の質が、スコアによって変わった。
二
会社に着くと、人事部から通知が来ていた。
「田村さん、少しよろしいですか」
人事担当の笹川は、温かみのある笑顔を持っていた。研修で身につけた笑顔だったが、研修で身につけたことが表に出ない程度には、徹底されていた。
「ライフスタイルアドバイザリーサービスからレポートが届きまして」と笹川は言った。「弊社は従業員の皆さんの健康と幸福をサポートするために、このサービスと提携しているんですね」
「知っています」と田村は言った。入社時の書類に、同意のサインをした記憶があった。読まなかった。読む人はいなかった。
「田村さんのスコアが、先週からすこし変動していまして」
「B+になりました」
「そうなんです」と笹川は言い、困ったような顔をした。困っているのは笹川ではなく、この状況だ、とでも言いたそうな顔だった。「弊社の規定では、Bを下回ると、一部のプロジェクトへのアサインに影響が出ることがありまして」
「Bを下回っていませんが」
「B+ですからね」と笹川は言った。「今すぐ何かというわけでは全くないんですが、早めにお伝えしたほうが親切かと思いまして」
親切、という言葉が、田村の頭の中で少し転がった。
「なぜ下がったんですか」と田村は聞いた。
「それが、スコアの算出ロジックは企業秘密でして」と笹川は言った。「アドバイザリーサービスに直接問い合わせることはできますよ。改善プランの提案もしてもらえるそうです」
有料で、と田村は思ったが、言わなかった。
「わかりました」と田村は言った。
三
昼休みに、アドバイザリーサービスのアプリを開いた。
オペレーターはすぐにつながった。声は穏やかで、感情の起伏がなかった。人工知能か人間か、判断がつかなかった。どちらでもよかった。
「スコアが下がった理由を教えてもらえますか」と田村は言った。
「もちろんです」とオペレーターは言った。「先月のデータを確認しますと、いくつかの要因が見受けられます。まず、外食の頻度が前月比で三十二パーセント減少しています」
「自炊しました」
「素晴らしいですね」とオペレーターは言った。「ただ、購入された食材のカテゴリが、推奨ライフスタイルの食事モデルと一致していない部分がありまして。たとえば、先月は外食時に選ばれていたオーガニック食品の購入が確認されていません」
「スーパーで買いました」
「はい。ただ、ご利用のスーパーは弊社提携外のため、データが取得できていません。スコアに反映されるのは、提携店舗でのご購入のみになります」
田村は少し考えた。
「つまり、同じものを食べていても、どこで買うかによってスコアが変わる」
「正確に言いますと、弊社が把握できている行動のみがスコアに反映されます」とオペレーターは言った。「把握できていない行動は、スコアへの貢献がゼロになります。ゼロは、マイナスではありませんが、改善にはつながらないんですね」
「存在しないのと同じですか」
「そういう言い方もできますね」とオペレーターは言った。否定しなかった。
四
改善プランは、月額四千八百円だった。
プランの内容は、提携店舗のリストと、スコアが上がりやすい消費パターンの提案と、週次のアドバイスレポートだった。要するに、スコアを上げるために、スコアを上げやすい場所でお金を使い、その消費をスコアに反映させる、という仕組みだった。田村はしばらく画面を見ていた。
論理的には正しかった。
契約した。
その日の帰り道、提携スーパーに寄った。オーガニックのトマトが、いつも行く店の倍の値段だった。買った。レジでアプリをかざすと、「スコア貢献:確認されました」という表示が出た。小さなアニメーションが流れた。星が三つ、画面の上に飛んだ。
悪くなかった。
悪くない、と思った自分を、田村は少し観察した。それからやめた。やめて、家に帰った。
五
六週間後、スコアはAに戻った。
レストランの待ち時間が元に戻った。タクシーが早く来るようになった。人事部の笹川から、「よかったですね」というメッセージが届いた。よかった、と田村は思った。実際に、よかった。不便が解消された。生活の質が上がった。これは事実だった。
ただ、一点だけ、田村には引っかかっていることがあった。
スコアがAに戻ってから、毎月の支出が、以前より一万二千円ほど増えていた。提携店舗での買い物と、アドバイザリーサービスの月額と、スコアが上がりやすいとされるサブスクリプションサービスを二つ追加したせいだった。
一万二千円分、生活の質は上がっているか、と田村は考えた。
上がっている、という結論になった。
なった、というより、そういう計算になった。計算は正しかった。数字は合っていた。では何が引っかかっているのか、田村は言語化しようとして、できなかった。言語化できないものは、問題ではなかった。少なくとも、スコアには反映されなかった。
スコアには反映されないので、存在しないのと同じだった。
田村はアプリを閉じて、夕食の食材をアプリの提案から選んだ。オーガニックの鶏肉と、提携農家の野菜と、スコア貢献度の高いミネラルウォーターだった。
料理しながら、ふと思った。
最近、疲れた、と誰かに言ったことがあっただろうか。
記憶になかった。言わなかったのか、言う相手がいなかったのか、言う気にならなかったのか、わからなかった。いずれにせよ、スコアには関係なかった。
夕食は、おいしかった。
満足度は、高かった。
そういうことにした、とは、思わなかった。
そういうことにした、という感覚自体が、もうなかった。